教師塾 blog

思慮深く、大胆に書きます。

活動理念 2019.5.28

教師塾
[活動形態]:非営利団体
[活動内容]:学習会・交流会
[活動理念]
「学校の教員と、そうでない人(教師)が学び合う場所を作りたい。」
教員を、
「学校で目の前にいる子たちと接するプロ」とし、
教師を、 「自分の持てるもの誰かのために使い、誰かを支え、誰かに教え、伝えたりする人」とします。 教員と教師が共に学び・交流できる場が「教師塾」です。


学び手が「この人は私の先生だ。」
と決めたとき、そう決められた人は先生になりえます。 今まで出会ったことのない人が今の自分の課題を解決するキーをもっているかもしれません。 「教師塾」は、”自分に合った先生に出会える場所“とも言えるでしょう。


教師塾は、教員と教師が共に学び・交流し、自分だけの先生に出会える場を作るべく活動します。


教員は頑張る人ほど、学校にいる時間が長いです。 学校のことを学校の中だけで考えてしまうのではなく、 多くの 立場の教師(大人・子ども)が集まって考えられたら、この場に集まる人の視野が広がるかもしれません。


[メッセージ]
多くの人が学校に通い、社会に出ていきます。 教員は学校以外での就業体験・諸活動がないこともあるでしょう。 学校から社会に旅立つ子どもたちのほとんどは学校の教員になりません。 学校にいた子どもたちは、学校以外の場 所で多様な経験をします。
その経験を教員でない、教師として教師塾でアウトプットしてほしい。 学校の教員であるあなたは、学校内のことを共に考え、 設定されたテーマを学び合うことで、新たな気付きにつな がります。 教師であるあなたは、あなたが大切にしてきたこと、していくことを現場の教員を通して、子どもたちに伝えてくだ さい。
教師塾は、家庭でも、学校でも、職場でもない場です。
安心して発言・体験・失敗できる場です。 評価はされません。人それぞれが学び・感じたことを大切にできる場です。 この場で学んだことが日常生活に生かされることがあれば幸いです。 この場に集まった仲間だからこそ生み出されるものを・気づけたことを見つけるべく共に活動していきましょう。


2019.5.28

第9回 教師塾振り返り

第9回 教師塾 〜てつがく対話をしてみよう〜

の振り返りを記事にします。

 

今回は”哲学対話”をテーマに場を開きました。

哲学対話に関しての記事は、Facebookコメント欄にあります。

 

場について

参加された皆さんが適度な沈黙を楽しみつつ、

ルールを意識しながら対話に参加してくれたことは嬉しかったですし、

そのおかげで”対話の場”が成立していました。

対話の場を成立させるには、(私を含めた)参加者自身が対話の場にどう関わるかを感じ・考え、そして、問い・聞き・語る必要があります。

刻々と変化する対話の場と自分がどう関わるかに集中できた時間だと感じました。

 

参加者の感想から

・一回も発言ができなった。

⇨ 聞いてくれる人がいるから語れることを伝えました。対話の途中でも座り続けることが辛かったり、お手洗いに行くこともあるでしょう。話がずれていると感じられたり、聞きたくないことを語り始めてしまった人がいて誰も席に着かなければ対話は成立しません。

ルールの中に、「ただ聞いているだけでもいい」があってよかったと思いました。

 

・場の評価をすることは怖いことだと思っている。

⇨ 対話の場が終わった後に、この回のレポートを書いても良いかと尋ねられた。嬉しいことなのでお願いすると同時に内容も確認した。

「自分の感想は書くけど、評価はしませんよ。評価をするということは、自分の見える範囲をさらけ出すことだから恥ずかしいです。」と応えて頂いた。

私自身は、評価をもらってもなくてもどちらでもいい。しかし、その人の新鮮な感想は欲しいと思っている。

評価をするという行為は求められない限りするものではないなと気づきました。

 

・反省<試行錯誤

私個人での場づくりに関しての反省というのは、効果が薄いと感じている。

この場に集まったこの同じ組み合わせはおそらく今後起こりえない。

その場、その場で最善だと思うことをコツコツをやっていくことだろうと思う。

何よりこの場に価値があることがわかったので、負担にならない程度で続けていこうと思う。

 

・今後

1・2ヶ月に一度くらいの頻度で開催していく予定です。

今まで通り、これを一緒に学びたい!この人から学びたい!という、プログラムがあるので皆さんでやってみませんか?という意見はドシドシ募集中で。

第8回 教師塾振り返り

今回はテーマを「〜今日からあなたもテツガクシャ〜」として、哲学対話を行いました。

"哲学"についても、"対話"についても捉え方は多種多様。

立場・出生・価値観ありとあらゆる人が語る言葉は皆違う。

集まる人によって哲学の定義、対話の定義もルールも変わってくる。

その中で、ファシリテーターの瀬尾さんは、参加者の声を聴くことと、瀬尾さん自身が伝えたいことの両立を目指し、濃い思考の時間を提供して頂きました。

スッキリした人、もやもやした人、言い足りない人、言葉を発せなかった人、様々。

その体験からどんな学びを抽出するのか。

それは学び手次第。

しかし、普段から考えがある人たちが集まっているだけあって、それぞれの世界が確立された人たちがそれぞれの確立された言語で、概念を語る様子を見たときに、この会に価値を感じました。

 

言語化すること。」

現状を打破する一つの方法になるだろうという確信はあります。

 

自分がなんで?

という感じることを、自分と自分の周りに集まる人が納得できる(だろう)言葉を紡ぐ。(※洗脳ではない)

正解はないのだけど、(納得してくれないかもだけど、)

自分と目の前にいる人が納得できる。

 

それには、

過去に考えることに命を使ってきた哲学者に力を借りること、

そこに集まった人に耳を傾けること、(ここが肝⇨私苦手)

自分の考えを皆にわかる形で言語化すること。

 

これらはどんな立場の人も、あったら良い(姿勢)なのではないかな?と思うのです。

(目に見えない立場や権力に負けず・屈せず・すがらないためにも。)

参加者の方には心地よいモヤと感を持って帰ってもらえたと思います。

次回も(哲学)対話をデザインした場とする予定です。

 

おわり

『「普通がいい」という病』第6講 読書感想 part1

第6講

愛と欲望

 

この講では、愛と欲望の違い、また愛を生み出すための基礎概念に触れていきます。

それにはまず、孤独と孤立の違いがベースになるようです。

(この講では読書を終えて、私の言葉と本の言葉を織り交ぜながら書いていきます。)

 

孤独とはなんでしょう。

孤独はごくごく自然なことように思えます。

生まれ死んでいく時は人は一人であるからそもそも私たちは孤独な存在であると。

集団の中で一人になっていることを孤立というならば、

孤独は原理であり、孤立は状況と捉えることができるのかもしれません。

 

孤独であることを受け入れることができず、

孤立することを恐れている人間が、くっついたところでさみしいだけだと書かれています。

一人でも賑やかな人は賑やかなのだと。笑

 

この孤独と孤立の違いがどのように、

愛と欲望の違いに結びついてくるのか。

 

孤独であることを受け入れている状態というのは、

ずっと一人でいても大丈夫である!ということでもないように思えます。

孤立した人(孤独を受け入れられない人は)が自分のために(孤独から目を背けるために)他者を必要としているとすれば、

お互いのためにお互いを求めあうような状態であることが、より自然で、孤独を受け入れた者同士の関係なのかもしれません。

谷川俊太郎はこの状態を、

万有引力とは、ひき合う孤独の力である」

「二十億光年の孤独」より

 

と言っています。

 

ここから愛と欲望についての話になっていきます。

この先が楽しみです。

 

『「普通がいい」という病』第5講 読書感想 part2

・駱駝・獅子・小児

下記に、人間の変化成熟のプロセスについて書かれたものを抜粋しました。

ニーチェツァラトゥストラ」第一部『三様の変化』 手塚富雄訳 中公文庫)

私は君たちに精神の三様の変化について語ろう。すなわち、どのようにして精神が駱駝となり、駱駝が獅子となり、獅子が小児となるかについて述べよう。

畏敬を宿している、強力で、重荷に耐える精神は、数多くの重いものに遭遇する。そしてこの強靭な精神は、重いもの、最も重いものを要求する。

何が重くて、担うのに骨が折れるか、それをこの重荷に堪える精神はたずねる。そして駱駝のようにひざまずいて、十分に重荷にを積まれることを望む。

(中略)

すべてこれらの最も重いことを、重荷に堪える精神は、重荷を負って砂漠へと急ぐ駱駝のように己の身に担う。そうしてかれはかれの砂漠へ急ぐ。

しかし、孤独の極みの砂漠のなかで、第二の変化が起こる。その時精神は獅子となる。精神は自由を我が物としようとし、自分自身が選んだ砂漠の主たろうとする。

その砂漠でかれはかれを最後に支配したものを呼び出す。

かれはその最後の支配者、かれの神の敵となろうとする。勝利を得ようと、かれはこの巨大な龍と角逐する。精神がもはや主と認めず、神と呼ぼうとしない巨大な龍とは、何であろうか。「汝なすべし」それがその巨大な龍の名である。

しかし、獅子の精神は言う、「我は欲す」と。

「汝なすべし」が、その精神の行く手をさえぎっている。金色にきらめく有隣動物であって、その一枚一枚の鱗に、「汝なすべし」が金色に輝いている。

(中略)

わたしの兄弟たちよ。何のために精神の獅子が必要になるのか。なぜ重荷を担う、諦念と畏敬の念にみちた駱駝では不十分なのか。

新しい価値を創造することーそれはまだ獅子にもできない。

しかし、新しい創造を目指して自由をわがものにすることーこれは獅子の力でなければできないのだ。

自由をわがものとし、義務に対してさえ聖なる「否」をいうこと、わたしの兄弟たちよ、そのためには獅子が必要なのだ。

(中略)

しかし思え、わたしの兄弟たちよ。獅子さえ行うことができなかったのに、小児の身で行うことができるものがある。それは何であろう。なぜ強奪する獅子が、さらに小児にならなければならないのだろう。

小児は無垢である、忘却である、新しい開始、遊戯、おのれの力で回る車輪、始末の運動、「然り」という聖なる発語である。

そうだわたしの兄弟よ。創造という遊戯のためには「然り」という聖なる発語が必要である。そのとき精神はおのれの意欲を意欲する。世界を離れて、おのれの世界を獲得する。

 

この文章を読んだ時、私(西尾)は職場での私の在り方と重ねて読みました。

私がこれを初めて読んだ時は、社会人2年目で職場からの影響で駱駝から獅子に変化し、とても怒っていたように記憶しています。笑

(無自覚な)自分の力の無さにも、周りとの不調和にも、納得していませんでした。

この文章で言えば、「汝なすべし」との壮絶な戦いといったところです。

(今振り返ると、「汝なすべし」はある特定の人物などではなく、自分の中にいるようにも思えました。)

 

駱駝であることも、獅子であることも、必ず通る段階であるとすれば、

駱駝をやってみないと、獅子になるエネルギーは湧いてこない。

獅子でいることで、本当に怒らなければいけない対象が見えてきたりするのかもしれません。

また、小児はゴールではなく、ある課題が見えてこればまた駱駝としてのスタートをきる。

この流れは一方向ではなく循環しているともいえそうです。

 

次は第6講です。

『「普通がいい」という病』第5講 読書感想part1

第5講

精神の成熟過程

〜駱駝・獅子・小児〜

 

これまで内容は、

ココロの声とアタマのコントールと対立があり、

ココロを声を聞いた方が”良い”と受け取られてしまっているかもしれません。

どちらが良いというより、これもバランスなのですが。

私(西尾)自身がアタマ由来のコントロールが強いタイプのようで、ココロの声も大切にししてほしいという意識が文章に表れているようです。

この章では、ココロの声、いわば「感情」について書かれています。

 

感情の井戸?や感情の鮮度?について、

ニーチェの『ツァラトゥストラ』の「三様の変化」(駱駝・獅子・小児)という章に書かれた人間の変化成熟のプロセスについて触れていきます。

この章から少しずつ抽象的な表現が多くなってきます。

読書会が楽しみになってきました。

 

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第3講では、

感情に「頭」由来の浅い感情と「心」由来の深い感情の二種類あると定義されていました。

この講での感情とは、”「心」由来の深い感情”と表現されています。

 

・感情の井戸

四つの感情のボールは、この図のように怒・哀・喜・楽の順番で井戸の中に入っています。

中略

四つのボールは順番に入っているので、一番上のボールが出ないと二番目、三番目は出てこられません。ここで上の二つは、よく「ネガティブな感情」と言われるものであることに気づかれるでしょう。一方、下の二つは「ポジティブな感情」と言われるものですが、これらは上二つの「ネガティブな感情」が意識に出てこない限り、出られなくなっているのです。

怒りの感情は全ての感情と繋がっているということなのでしょうか。

 

・感情を差別しない

「感情の井戸」の図で、一番上が「怒」があることに注目していただきたいと思います。私たちは、「怒り」というものについて、どんなふうに日頃考えているでしょうか。多分、「怒り」はなるべく出さないに越したことはない、「怒り」は良くないものだ、と考えている人が多いのではないでしょうか。

想像をしてみたのですが、

プロ野球などで投手がピンチで三振をとったり、

打者がチャンスでホームランを打ったりするとき、

すぐに満面の笑みになるというよりは、

「おっしゃーーー!!!」とか、「おらぁぁぁぁぁぁ!」

と吠えるようにしてから少しばかりの笑顔が見えるというような流れがあるように思えます。

怒りながら喜んでいる様な感じです。笑

 

嬉しいのに泣いていたり、

怒っているのに泣いていたり、

怒っていたら、哀しくなったり。

感情は喜怒哀楽を分けないことが大切なのかも知れません。

 

part2へ

 

『「普通がいい」という病』第4講 読書感想part3

・自己形成のイメージ

塑像的自己形成

アタマで考え、理想を作り、作り上げた理想へ向かっていくように色々なものをくっつけていく。

その理想ってどうやって作り上げたんだろう?

何に影響されているんだろう?と立ち止まってもいいかもしれない。

 

彫刻的自己形成

最も大切なこと(命を使う価値のあること)は自分自身の中にあることが前提。

すでに価値ある存在であることも前提。

色々な知識や体験を自分のものにするというよりは、自分と対話するための材料していくような感じかと。

 

本当の自分が外にあって探していくのか、

本当の自分は内にあり、自分と向き合いながら見つけていくのか。

 

どちらがいいかという話ではなく、

自分がどのような自己形成をしているのかを考えるきっかけになればいいと思っています。

まだまだ、私は自分を掘り下げながらになりそうです。

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次は第5講です。