教師塾 blog

思慮深く、大胆に書きます。

『「普通がいい」という病』第4講 読書感想part2

・自己コントロールの病

著者の泉谷閑示さんは精神科医であるため、この節ではこれらの項目について論じられいます。

a.強迫神経症

b.摂食障害

c.ひきこもり・不登校家庭内暴力

d.難治性うつ病

dの項目についての抜粋です。

コントロールを行う中心は、「頭」の中の、とりわけ道徳的観念です。この道徳的観点は肥大化していき、「謙虚さ」や「自己卑下」の名目で、厳しい自己判断を行います。こうして、自分がある基準をクリアした場合にだけ自分を認め、それ以外の自分は認めないという強制的体制が続いていきます。ですから、自分を「愛」することは、自分を甘やかすことと混同され、厳しく禁じられ、遠ざけられてしまいます。

いくら努力し実績を重ねたとしても、自分を褒めることも禁じていますから、生きることは終わりなき努力と忍耐の修行のようなものにしか思えません。それでも弱音を吐くことは「逃げ」として禁じられていますから、自分の奥底に疲労感と自己不全感が蓄積していることにも自分では気づけません。

こちらの抜粋を読んでどう感じるでしょうか。

〇年は苦労するのは当然だ!!!

とか、

まさしく、努力と忍耐の修行が人生だ!!

とか、

あれ?頑張らなくてもいいの?

とか。

感じることは人それぞれだと思います。

 

私自身は、

確かに苦労することはあるかもしれないとは思います。

しかし、

それは自分がどれくらいできるようになりたいか?

が一番大切なことであると言う前提があります。

頑張る程度も自分のペースでいいと思っています。

課題を自覚して、

何とかしようかな?って思ったときに初めて

何かに取り組めばいいと思っています。

 頑張る人が正義で、

頑張らない人は悪であるようなそんな2元論で考えてしまうと苦しいことばかりです。

 

part3へ

『「普通がいい」という病』第4講 読書感想part1

第4講

捻じ曲げられる人間 ~コントロールという病~

この講では、頭由来の2元論で身体や心をコントロールすることで、どんな影響が出てくるのかを多角的に論じられています。

 

・規則的な生活は本当に大切なのか

子どもにつけさせねばならぬただ一つの習慣は、どんな習慣にも染まらないという習慣である。

前掲『エミール』より

中略

「習慣」は、人間の行動をあるマニュアル通りにコントロールする仕掛けですが、これはともすると、人間の柔軟性や即興性を奪い、チェーン店の接客マニュアルのように表面だけ整えて内的には不自然な状態を作ってしまう恐れがあるのです。

習慣にしてしまった方がやりやすいことはありますが、

習慣は誰かにつけさせられるものではないと思います。

自分で決めて、自分でやっていくことで自分が変わっていくことは価値があるような気がしています。

 

・北風と太陽

ご参照ください↓

北風と太陽 イソップ物語 <福娘童話集 世界の有名な話>

第3講でも話しましたが、「頭」の理性はとかく北風方式のコントロールで物事を解決しようとする傾向があります。習慣によるコントロール・知識によるコントロール・マニュアルによるコントロールなどさまざまありますが、しかし、本当の変化というのは、中から自発的に起こってくるものです。それを可能にするのは太陽方式です。

 外的動機づけ、内的動機づけという概念もありますが、本書で大切にされているのは内的な動機づけだということです。

外側から影響を与えることには限界があります。

内的な変化を期待せず、問うことであったり、環境を整えていくことの方が大切であると再確認できます。

 

part2へ

 

『「普通がいい」という病』第3講 読書感想

第3章

失楽園 〜人間の苦しみの起源〜

 

ここでは、人間の仕組みについて、

頭、心、身体がそれぞれどんな繋がりがあり、どんな特徴があるのかを述べています。

f:id:gt_24_o223:20180716160342j:plain

頭は理性の場、

心は感情、欲求、感覚(直観)の場

となっています。

身体は心とつながっており、

心は頭とつながっていますが、

心と頭の境目には弁のようなものが付いています。

これが厄介者で、心で感じたことを頭側から弁を閉めてしまうことがあります。

 

どうしたいか?

より、

どうしたら良いか?

が先行してしまう状態です。

 

「今回は仕方ないか・・・。」

と本当は心で感じた通りにしたいけど、

頭で考えたことを選択しているだと自覚的になっていれば問題はないのですが、

頭由来の判断ばかりを頼ってしまい、弁が閉じてしまっていることに気づけず、

心の声が届かなくなってしまうこともあります。

これが続くと、

「こんな風に思っています自分は悪い人間だ。」なんて頭で判断し始めてしまいかねません。

そうなると、心とつながっている身体も機能を止め始めます。

 

心由来の感情をシンプルに聞いてあげるときも必要です。

頭による、心と体の支配が人間の苦しみの起源なのかもしれません。

 

次は第4章です。

『「普通がいい」という病』第2講 読書感想part2

・「現実」とは?

 

A君:僕は音楽で食べていけるようになりたい!

A母:もっと現実をみなさい!!あなたの成績なら安定した会社への就職でもできるでしょ?!

A君:自分の人生は自分で決める!だから専門学校に行かせてくれ!

A母:現実はそんなに甘くないのよ!!

 

・・・

現実とは何なのでしょう。笑

いうならば、

「私はブログを書いている。」

現実だと思いますし、事実です。

 

少なからず、

「現実を見ろよ・・・」

と言われると寂しい気持ちになる気がしています。

妥協して他大勢が選ぶ堅実な選択をしなければならないような、

あたかもその方が本当は正解であるような大前提を叩きつけられるような気がします。

現実とはどこにあるのでしょう。

認識と事実は分けて考えて生きたいものです。

 

・それぞれのファンタジー

例えば、

「私は昔から貧乏で大変だったんです・・・」

と言っている人がいるとしましょう。

これは認識だということはお分かりでしょうか?

誰を、どの国のどこを基準にとるかで貧乏かどうかは変わってきますよね。

相対的に周りを見てこの人はそう言っているでしょう。

 

貧乏であることは事実でないにせよ、

この人が貧乏だと認識しているという事実はあります。

 

事実と認識の違いが思い込み(ファンタジー)を引き起こします。

私たちはどんなファンタジーの中で生きているか自覚することが先決です。

 

次回は第3章です。

 

『「普通がいい」という病』第2講 読書感想part1

第2講

「言葉の手垢を落とす」

第2講は、テーマの通り、

”普通とは?”

”現実とは?”

という言葉の意味を考えていきます。

さらにいうと、

私たちが言葉に対して無意識のうちにどんな意味合いを込めて使ってしまっているのか?

を考えていくことになります。

また、自他との区別や人称の違いという観点から言葉について論じていき、

事実と認識を分けるためのヒントにまで話は至ります。

この章をさらに詳しく書かれた本もあります。

「私」を生きるための言葉 日本語と個人主義

では、

早速ですが、

”普通”という言葉についてです。

・「普通」について

普通という言葉には、平凡で皆と同じことが良いことなんだとか、「普通」に生きることが幸せに違いない、という偏った価値観がベッタリとくっついています。つまり、「普通」になれば「普通」に幸せになれると思い込んでいるわけです。しかし、幸せというものには「普通」はない。なぜなら「普通」ではないのが、幸せの本質だからです。 

一度、「普通」ってなんだろう?と考えたことがある人であればこの一節は頷けるのではないでしょうか。

しかし、どこかで普通を意識している自分にも出会うのではないかと想像します。

 

・言葉の手垢

たとえば、一〇円玉は新しい時はピカピカと輝いている。それが多くの人の手に渡って使われているうちに、次第に手垢にまみれ、錆びてくる。言葉も同様で、人々に使われ流通していくうちに、いつの間にか手垢や錆をまとっていくものなのです。

言葉というのは自分以外にも使用する人がいます。

というより、自分の言葉とは自分で考えついて使っていることはなく、他者や本からインストールして使っているものです。

なので、その環境で使われている言葉の意味が自分の言葉にも載っかってしまっていることがほとんどなのではないかと思います。

 

「普通」という言葉の意味をどんな切り口から考えていったらいいのでしょうか。

まず、「普通」なんて存在しないからと言って、際限のない自由な発言や行動をとっていくことは難しいかもしれません。

 

意識することが二つあります。

・言葉の二つの側面

 

言葉には公的(パブリック)な側面と、私的(プライベート)な側面があります。

本を読む習慣のある人や、会いたい人に会いにいく習慣のある人は、日常生活では出会えない言葉に出会う機会が多いので時はないでしょうか。

職場ではこの言葉で、友人とはこの言葉で、親にはこの言葉でという風に言葉を選ぶことが言葉の手垢に自覚的になる一歩だと感じています。

 

・自他の区別

従来、人はこの言葉の二つの側面をそれなりに使い分けることが出来ていました。しかし、近年はそれが出来ない人たちが増えている印象があります。プラベートな言葉をそのままパブリックに持ち込んだり、逆に、パブリックな場で投げかけられた言葉をプライベートなフィルターを通して受け取り、「傷ついた」とか「ひどいことを言われた」と反応したりする人が実に多いのです。

これは私(西尾)も経験したことでした。

混ぜこぜにして勝手に自分で苦しんだことがたくさんあります。

完全に私見ですが、人生の先輩方はいろんな意味を短い言葉に乗せて言うことがある気がしています。

長く生きれば生きるほど、何度も説明するのも疲れるだろうし、言葉で言ったってわからないであろう領域のことを言葉にしてくれているんだろうと思います。

それを自分の言葉の意味フィルターでそのまま受け取ってしまっては、なんの収穫にもなりません。

その言葉に込められた意味を味わうことが大切な気がしています。

短すぎたり、使っている本人が伝わらないことを前提に”あえて”使っているという自覚なく、なぜ伝わらないのか?と思っている場合は辛いものがあると思いますが・・・・。

 

part2へ続く

『「普通がいい」という病』第1講 読書感想part3

・葛藤、悩むことの意味

悩むという状態は、苦しみも伴うこともあります。

今日のご飯は、カツ丼か、親子丼かという幸せな悩みもありますね。

葛藤自体は、自然な状態であると著者は言っています。

葛藤とは、アタマ由来のことと、ココロ由来のことで揺れている状態のこと。

葛藤自体を楽しめればいいのですが、そんな楽しめる内容でないときは、

アタマ由来のことが、ココロ由来のことを押しつぶしてしまう。

そうすると一時的には悩まずにスッキリするような気もしますが、

ココロの声を聞けていない状態が続きます。

それがずっと続くと、頑張りたいのに元気が出ない。

エネルギーが枯れてしまい、鬱状態に入ってしまうというのです。

「病的な安定」と「健康的な不安定」について書かれている節の紹介でした。

 

・「癒しという誘惑」

世の中では「癒し」という言葉が流行っているけど、曖昧な言葉ですね。その人間を変えようとする力がないし、生ぬるいお湯に何時間も使っているように、今のまま気持ちよくとどめようとするだけで、自立の意識を殺すものが多い。美術にとって必要なことは自立なんです。人を救うということは、人を自立させることだと思う。

横尾忠則『横尾流現代美術』より引用された文章が記載されています。

癒しに隠された要素をあぶり出す文章のように感じます。

どれだけ、自分が不遇な環境にいたとしてもそれを打開するのは自分。

人の成長に携わるなら自立を見据え関わることを念頭におかなければなりません。

その人の成長のために、その人が踏まなければならないステップを一つでも踏ませず助けてしまえば、それは違ったものになってします。

そのバランス感覚を忘れてはいけないです。

 

次回は2章に入ります。

『「普通がいい」という病』第1講 読書感想part2

健康とは?

私は、健康にこだわっている状態というのは、逆に不健康な状態なのではないかと思います。

健康などということは忘れ、そんなことを考えずにいることこそ、本当の健康なのではないでしょうか。

これは何でもかんでも好き好きにやってみてしまえばいいというものではなく、

例えば、、、

草野球の大事な一戦を前にコンビニでスポーツドリンクを買いに来たとしましょう。

そしたら友人が、ポカリかアクエリアスか・・・

というところで猛烈に悩んでいたらどうでしょう。

ゲンを担ぐ意味で、前にポカリで勝ったらからポカリやな!

みたいな悩み方なら面白いかもしれませんが、

「うーん、味はポカリだけど、カロリーは・・・」

みたいな、、笑

 

そんな悩み方って健康を意識しすぎた不健康なのではないかと思います。

それならいっそ、コーラを買ってしまって欲しいと思ったりします。笑

 

・自分で自分に貼ったレッテル

「私は神経質です」「私は頑固です」「私はうつ病です」・・・・・。

貼ったことによって、自分で自分を規定してしまいます。言葉には、対象を固定してしまう働きがあるので、こうしてレッテルの言葉の中に、自分自身を閉じ込めてしまう。 

 なりたい自分には言葉から変えよう!!!

という話ではありません。

ポジティブな言葉を使おう!

という話でもありません。

 

自分にどんなレッテルを貼っているか、使っている言葉や、浴びせられている言葉で自分にどんな思い込みがあるのか。

それに自覚的になろうという話です。

 

「あの人のあの一言が許せない!!!」

なんてことはないでしょうか。私はあります。笑

 

客観的に見てもその人の言葉は許されるものではないにしても、

なぜかそんな言葉を使っている人はいます。

”そんな言葉”と言っても意味があり、使われるから”そんな言葉”は存在しています。

ということはその言葉に込める意味が大きく違うのでは?と考えてみたいです。

ここでは

「言葉の手垢」

 という表現が使われています。

どんな意味なのでしょうか。

 

続く