第8回 教師塾振り返り
今回はテーマを「〜今日からあなたもテツガクシャ〜」として、哲学対話を行いました。
"哲学"についても、"対話"についても捉え方は多種多様。
立場・出生・価値観ありとあらゆる人が語る言葉は皆違う。
集まる人によって哲学の定義、対話の定義もルールも変わってくる。
その中で、ファシリテーターの瀬尾さんは、参加者の声を聴くことと、瀬尾さん自身が伝えたいことの両立を目指し、濃い思考の時間を提供して頂きました。
スッキリした人、もやもやした人、言い足りない人、言葉を発せなかった人、様々。
その体験からどんな学びを抽出するのか。
それは学び手次第。
しかし、普段から考えがある人たちが集まっているだけあって、それぞれの世界が確立された人たちがそれぞれの確立された言語で、概念を語る様子を見たときに、この会に価値を感じました。
「言語化すること。」
現状を打破する一つの方法になるだろうという確信はあります。
自分がなんで?
という感じることを、自分と自分の周りに集まる人が納得できる(だろう)言葉を紡ぐ。(※洗脳ではない)
正解はないのだけど、(納得してくれないかもだけど、)
自分と目の前にいる人が納得できる。
それには、
過去に考えることに命を使ってきた哲学者に力を借りること、
そこに集まった人に耳を傾けること、(ここが肝⇨私苦手)
自分の考えを皆にわかる形で言語化すること。
これらはどんな立場の人も、あったら良い(姿勢)なのではないかな?と思うのです。
(目に見えない立場や権力に負けず・屈せず・すがらないためにも。)
参加者の方には心地よいモヤと感を持って帰ってもらえたと思います。
次回も(哲学)対話をデザインした場とする予定です。
おわり
『「普通がいい」という病』第6講 読書感想 part1
第6講
愛と欲望
この講では、愛と欲望の違い、また愛を生み出すための基礎概念に触れていきます。
それにはまず、孤独と孤立の違いがベースになるようです。
(この講では読書を終えて、私の言葉と本の言葉を織り交ぜながら書いていきます。)
孤独とはなんでしょう。
孤独はごくごく自然なことように思えます。
生まれ死んでいく時は人は一人であるからそもそも私たちは孤独な存在であると。
集団の中で一人になっていることを孤立というならば、
孤独は原理であり、孤立は状況と捉えることができるのかもしれません。
孤独であることを受け入れることができず、
孤立することを恐れている人間が、くっついたところでさみしいだけだと書かれています。
一人でも賑やかな人は賑やかなのだと。笑
この孤独と孤立の違いがどのように、
愛と欲望の違いに結びついてくるのか。
孤独であることを受け入れている状態というのは、
ずっと一人でいても大丈夫である!ということでもないように思えます。
孤立した人(孤独を受け入れられない人は)が自分のために(孤独から目を背けるために)他者を必要としているとすれば、
お互いのためにお互いを求めあうような状態であることが、より自然で、孤独を受け入れた者同士の関係なのかもしれません。
谷川俊太郎はこの状態を、
「万有引力とは、ひき合う孤独の力である」
「二十億光年の孤独」より
と言っています。
ここから愛と欲望についての話になっていきます。
この先が楽しみです。
『「普通がいい」という病』第5講 読書感想 part2
・駱駝・獅子・小児
下記に、人間の変化成熟のプロセスについて書かれたものを抜粋しました。
(ニーチェ「ツァラトゥストラ」第一部『三様の変化』 手塚富雄訳 中公文庫)
私は君たちに精神の三様の変化について語ろう。すなわち、どのようにして精神が駱駝となり、駱駝が獅子となり、獅子が小児となるかについて述べよう。
畏敬を宿している、強力で、重荷に耐える精神は、数多くの重いものに遭遇する。そしてこの強靭な精神は、重いもの、最も重いものを要求する。
何が重くて、担うのに骨が折れるか、それをこの重荷に堪える精神はたずねる。そして駱駝のようにひざまずいて、十分に重荷にを積まれることを望む。
(中略)
すべてこれらの最も重いことを、重荷に堪える精神は、重荷を負って砂漠へと急ぐ駱駝のように己の身に担う。そうしてかれはかれの砂漠へ急ぐ。
しかし、孤独の極みの砂漠のなかで、第二の変化が起こる。その時精神は獅子となる。精神は自由を我が物としようとし、自分自身が選んだ砂漠の主たろうとする。
その砂漠でかれはかれを最後に支配したものを呼び出す。
かれはその最後の支配者、かれの神の敵となろうとする。勝利を得ようと、かれはこの巨大な龍と角逐する。精神がもはや主と認めず、神と呼ぼうとしない巨大な龍とは、何であろうか。「汝なすべし」それがその巨大な龍の名である。
しかし、獅子の精神は言う、「我は欲す」と。
「汝なすべし」が、その精神の行く手をさえぎっている。金色にきらめく有隣動物であって、その一枚一枚の鱗に、「汝なすべし」が金色に輝いている。
(中略)
わたしの兄弟たちよ。何のために精神の獅子が必要になるのか。なぜ重荷を担う、諦念と畏敬の念にみちた駱駝では不十分なのか。
新しい価値を創造することーそれはまだ獅子にもできない。
しかし、新しい創造を目指して自由をわがものにすることーこれは獅子の力でなければできないのだ。
自由をわがものとし、義務に対してさえ聖なる「否」をいうこと、わたしの兄弟たちよ、そのためには獅子が必要なのだ。
(中略)
しかし思え、わたしの兄弟たちよ。獅子さえ行うことができなかったのに、小児の身で行うことができるものがある。それは何であろう。なぜ強奪する獅子が、さらに小児にならなければならないのだろう。
小児は無垢である、忘却である、新しい開始、遊戯、おのれの力で回る車輪、始末の運動、「然り」という聖なる発語である。
そうだわたしの兄弟よ。創造という遊戯のためには「然り」という聖なる発語が必要である。そのとき精神はおのれの意欲を意欲する。世界を離れて、おのれの世界を獲得する。
この文章を読んだ時、私(西尾)は職場での私の在り方と重ねて読みました。
私がこれを初めて読んだ時は、社会人2年目で職場からの影響で駱駝から獅子に変化し、とても怒っていたように記憶しています。笑
(無自覚な)自分の力の無さにも、周りとの不調和にも、納得していませんでした。
この文章で言えば、「汝なすべし」との壮絶な戦いといったところです。
(今振り返ると、「汝なすべし」はある特定の人物などではなく、自分の中にいるようにも思えました。)
駱駝であることも、獅子であることも、必ず通る段階であるとすれば、
駱駝をやってみないと、獅子になるエネルギーは湧いてこない。
獅子でいることで、本当に怒らなければいけない対象が見えてきたりするのかもしれません。
また、小児はゴールではなく、ある課題が見えてこればまた駱駝としてのスタートをきる。
この流れは一方向ではなく循環しているともいえそうです。
次は第6講です。
『「普通がいい」という病』第5講 読書感想part1
第5講
精神の成熟過程
〜駱駝・獅子・小児〜
これまで内容は、
ココロの声とアタマのコントールと対立があり、
ココロを声を聞いた方が”良い”と受け取られてしまっているかもしれません。
どちらが良いというより、これもバランスなのですが。
私(西尾)自身がアタマ由来のコントロールが強いタイプのようで、ココロの声も大切にししてほしいという意識が文章に表れているようです。
この章では、ココロの声、いわば「感情」について書かれています。
感情の井戸?や感情の鮮度?について、
ニーチェの『ツァラトゥストラ』の「三様の変化」(駱駝・獅子・小児)という章に書かれた人間の変化成熟のプロセスについて触れていきます。
この章から少しずつ抽象的な表現が多くなってきます。
読書会が楽しみになってきました。
第3講では、
感情に「頭」由来の浅い感情と「心」由来の深い感情の二種類あると定義されていました。
この講での感情とは、”「心」由来の深い感情”と表現されています。
・感情の井戸
四つの感情のボールは、この図のように怒・哀・喜・楽の順番で井戸の中に入っています。
中略
四つのボールは順番に入っているので、一番上のボールが出ないと二番目、三番目は出てこられません。ここで上の二つは、よく「ネガティブな感情」と言われるものであることに気づかれるでしょう。一方、下の二つは「ポジティブな感情」と言われるものですが、これらは上二つの「ネガティブな感情」が意識に出てこない限り、出られなくなっているのです。
怒りの感情は全ての感情と繋がっているということなのでしょうか。
・感情を差別しない
「感情の井戸」の図で、一番上が「怒」があることに注目していただきたいと思います。私たちは、「怒り」というものについて、どんなふうに日頃考えているでしょうか。多分、「怒り」はなるべく出さないに越したことはない、「怒り」は良くないものだ、と考えている人が多いのではないでしょうか。
想像をしてみたのですが、
プロ野球などで投手がピンチで三振をとったり、
打者がチャンスでホームランを打ったりするとき、
すぐに満面の笑みになるというよりは、
「おっしゃーーー!!!」とか、「おらぁぁぁぁぁぁ!」
と吠えるようにしてから少しばかりの笑顔が見えるというような流れがあるように思えます。
怒りながら喜んでいる様な感じです。笑
嬉しいのに泣いていたり、
怒っているのに泣いていたり、
怒っていたら、哀しくなったり。
感情は喜怒哀楽を分けないことが大切なのかも知れません。
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『「普通がいい」という病』第4講 読書感想part3
・自己形成のイメージ
塑像的自己形成
アタマで考え、理想を作り、作り上げた理想へ向かっていくように色々なものをくっつけていく。
その理想ってどうやって作り上げたんだろう?
何に影響されているんだろう?と立ち止まってもいいかもしれない。
彫刻的自己形成
最も大切なこと(命を使う価値のあること)は自分自身の中にあることが前提。
すでに価値ある存在であることも前提。
色々な知識や体験を自分のものにするというよりは、自分と対話するための材料していくような感じかと。
本当の自分が外にあって探していくのか、
本当の自分は内にあり、自分と向き合いながら見つけていくのか。
どちらがいいかという話ではなく、
自分がどのような自己形成をしているのかを考えるきっかけになればいいと思っています。
まだまだ、私は自分を掘り下げながらになりそうです。
次は第5講です。
『「普通がいい」という病』第4講 読書感想part2
・自己コントロールの病
著者の泉谷閑示さんは精神科医であるため、この節ではこれらの項目について論じられいます。
a.強迫神経症
b.摂食障害
d.難治性うつ病
dの項目についての抜粋です。
コントロールを行う中心は、「頭」の中の、とりわけ道徳的観念です。この道徳的観点は肥大化していき、「謙虚さ」や「自己卑下」の名目で、厳しい自己判断を行います。こうして、自分がある基準をクリアした場合にだけ自分を認め、それ以外の自分は認めないという強制的体制が続いていきます。ですから、自分を「愛」することは、自分を甘やかすことと混同され、厳しく禁じられ、遠ざけられてしまいます。
いくら努力し実績を重ねたとしても、自分を褒めることも禁じていますから、生きることは終わりなき努力と忍耐の修行のようなものにしか思えません。それでも弱音を吐くことは「逃げ」として禁じられていますから、自分の奥底に疲労感と自己不全感が蓄積していることにも自分では気づけません。
こちらの抜粋を読んでどう感じるでしょうか。
〇年は苦労するのは当然だ!!!
とか、
まさしく、努力と忍耐の修行が人生だ!!
とか、
あれ?頑張らなくてもいいの?
とか。
感じることは人それぞれだと思います。
私自身は、
確かに苦労することはあるかもしれないとは思います。
しかし、
それは自分がどれくらいできるようになりたいか?
が一番大切なことであると言う前提があります。
頑張る程度も自分のペースでいいと思っています。
課題を自覚して、
何とかしようかな?って思ったときに初めて
何かに取り組めばいいと思っています。
頑張る人が正義で、
頑張らない人は悪であるようなそんな2元論で考えてしまうと苦しいことばかりです。
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『「普通がいい」という病』第4講 読書感想part1
第4講
捻じ曲げられる人間 ~コントロールという病~
この講では、頭由来の2元論で身体や心をコントロールすることで、どんな影響が出てくるのかを多角的に論じられています。
・規則的な生活は本当に大切なのか
子どもにつけさせねばならぬただ一つの習慣は、どんな習慣にも染まらないという習慣である。
前掲『エミール』より
中略
「習慣」は、人間の行動をあるマニュアル通りにコントロールする仕掛けですが、これはともすると、人間の柔軟性や即興性を奪い、チェーン店の接客マニュアルのように表面だけ整えて内的には不自然な状態を作ってしまう恐れがあるのです。
習慣にしてしまった方がやりやすいことはありますが、
習慣は誰かにつけさせられるものではないと思います。
自分で決めて、自分でやっていくことで自分が変わっていくことは価値があるような気がしています。
・北風と太陽
ご参照ください↓
第3講でも話しましたが、「頭」の理性はとかく北風方式のコントロールで物事を解決しようとする傾向があります。習慣によるコントロール・知識によるコントロール・マニュアルによるコントロールなどさまざまありますが、しかし、本当の変化というのは、中から自発的に起こってくるものです。それを可能にするのは太陽方式です。
外的動機づけ、内的動機づけという概念もありますが、本書で大切にされているのは内的な動機づけだということです。
外側から影響を与えることには限界があります。
内的な変化を期待せず、問うことであったり、環境を整えていくことの方が大切であると再確認できます。
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