『「普通がいい」という病』第2講 読書感想part1
第2講
「言葉の手垢を落とす」
第2講は、テーマの通り、
”普通とは?”
”現実とは?”
という言葉の意味を考えていきます。
さらにいうと、
私たちが言葉に対して無意識のうちにどんな意味合いを込めて使ってしまっているのか?
を考えていくことになります。
また、自他との区別や人称の違いという観点から言葉について論じていき、
事実と認識を分けるためのヒントにまで話は至ります。
この章をさらに詳しく書かれた本もあります。
では、
早速ですが、
”普通”という言葉についてです。
・「普通」について
普通という言葉には、平凡で皆と同じことが良いことなんだとか、「普通」に生きることが幸せに違いない、という偏った価値観がベッタリとくっついています。つまり、「普通」になれば「普通」に幸せになれると思い込んでいるわけです。しかし、幸せというものには「普通」はない。なぜなら「普通」ではないのが、幸せの本質だからです。
一度、「普通」ってなんだろう?と考えたことがある人であればこの一節は頷けるのではないでしょうか。
しかし、どこかで普通を意識している自分にも出会うのではないかと想像します。
・言葉の手垢
たとえば、一〇円玉は新しい時はピカピカと輝いている。それが多くの人の手に渡って使われているうちに、次第に手垢にまみれ、錆びてくる。言葉も同様で、人々に使われ流通していくうちに、いつの間にか手垢や錆をまとっていくものなのです。
言葉というのは自分以外にも使用する人がいます。
というより、自分の言葉とは自分で考えついて使っていることはなく、他者や本からインストールして使っているものです。
なので、その環境で使われている言葉の意味が自分の言葉にも載っかってしまっていることがほとんどなのではないかと思います。
「普通」という言葉の意味をどんな切り口から考えていったらいいのでしょうか。
まず、「普通」なんて存在しないからと言って、際限のない自由な発言や行動をとっていくことは難しいかもしれません。
意識することが二つあります。
・言葉の二つの側面
言葉には公的(パブリック)な側面と、私的(プライベート)な側面があります。
本を読む習慣のある人や、会いたい人に会いにいく習慣のある人は、日常生活では出会えない言葉に出会う機会が多いので時はないでしょうか。
職場ではこの言葉で、友人とはこの言葉で、親にはこの言葉でという風に言葉を選ぶことが言葉の手垢に自覚的になる一歩だと感じています。
・自他の区別
従来、人はこの言葉の二つの側面をそれなりに使い分けることが出来ていました。しかし、近年はそれが出来ない人たちが増えている印象があります。プラベートな言葉をそのままパブリックに持ち込んだり、逆に、パブリックな場で投げかけられた言葉をプライベートなフィルターを通して受け取り、「傷ついた」とか「ひどいことを言われた」と反応したりする人が実に多いのです。
これは私(西尾)も経験したことでした。
混ぜこぜにして勝手に自分で苦しんだことがたくさんあります。
完全に私見ですが、人生の先輩方はいろんな意味を短い言葉に乗せて言うことがある気がしています。
長く生きれば生きるほど、何度も説明するのも疲れるだろうし、言葉で言ったってわからないであろう領域のことを言葉にしてくれているんだろうと思います。
それを自分の言葉の意味フィルターでそのまま受け取ってしまっては、なんの収穫にもなりません。
その言葉に込められた意味を味わうことが大切な気がしています。
短すぎたり、使っている本人が伝わらないことを前提に”あえて”使っているという自覚なく、なぜ伝わらないのか?と思っている場合は辛いものがあると思いますが・・・・。
part2へ続く